私達の周りにはね、沢山の呪いがあるの。
はじめまして。
今日から、できれば毎日、無理なら3日に一回でもブログを書いていけたら嬉しいです。
簡単に自己紹介をすると、私は旅行好きの、20代。メディア界隈を転々としています。このブログでは、同世代と話す中で、日々の生活で感じる、人生の疑問について自分の忘備録も含めて書いていけたらなぁ、と思います。
さて、タイトルにもかいた「たくさんの呪い」。人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のなかのセリフの1つでした。
この「呪い」については、色々な人が色々なところで言及しているけれど、今回は私が最近感じる「呪い」について考えてみたいと思います。
無意識に、人は「言葉の呪い」にかかってる
まずは、「言葉の呪い」。
私は、フェミニストとかではないけれど、ムムッと考えさせられた。
川上未映子さんが、こんな記事を書いていました。
川上未映子 「主人」という言葉が心底嫌い [PR] | 川上未映子のびんづめ日記2 | 日経DUAL
「主人」という言葉にアレルギーがある、と。「主人」というのは従属関係がある。そして、言葉というものは、無意識に使うだけで、自然に自分の中に価値観が刷り込まれてしまう、と。
そう、どんな文脈であれ、やっぱり主人は主人だ。ご主人さまだ。言葉っていうのは、どうしてなかなか厄介なもので、使っているとその言葉のもつ意味は、けっこう心身にぐいぐい侵食してくるものなのだ。
とはいえ、「主人」という言葉にステータスを感じ、あえて使う人もいる。
あとは、本当に「わたしのご主人様💕」みたいに思ってる人もいるのかもしれない。また、よくわかんないけど、若い人でも「いい相手と結婚ができた自分💕」とか「わたしのこの立場、最高💕」みたいに感じている人が、ある種のステータスを顕示するための「主人が~💕」が存在するのも、もちろん、わかる。
この文章を読みながら思い出したのは、「奥さま」という言葉。専業主婦がステータスで、また働いている女性なんて少なかった時代の人が、違和感なく使っているのはわかる。でも、平成世代はどうなのだろう。
結婚を公表した際に、たいして広告時代に仲良くなかった知人AからこんなメッセージがSNSに届いた。
「今度、奥様会しようね♡」
なんだか、心底ゾワワっとしたのを覚えてる。今まで、特に繋がりもなかったのに、その高校のコミュニティのなかで、数少ない「結婚」という儀式を通した人間だから、「あなたは仲間になったの」とでも言われたような。
奥様会自体を否定するつもりはないのだけど、私が思ったのは「いや、たぶん話し合わないよね」という淡白な感想。
例え、高校時代に仲の良かった友人でさえ、10年くらいの時が流れると、久々の再会に戸惑いすらおぼえる。思い出話と近況報告に話題は徹し、場合によってはあの机を並べてお弁当を食べた日々のようには互いの話にもう、心から共感できない、という恐ろしい事実に愕然とする。過ごした10年の環境の違いがもたらした「時」という壁がの厚さを、身をもって思い知る。
「こっち側」と「あっち側」
どこの大学に進学したか、就職先、結婚。嫌な話だけど、こうした小さな決断の積み重ねが、気づけば違う惑星というくらい遠くに私たちを連れて行く。
Aは、たぶん「ようこそこっち側へ」と無意識に「奥さま会」という言葉を発したのかもしれないけれど、私は「奥さま」という言葉は心底嫌い。そして、Aのようにパートナーを「主人」とも思えない。お互いに対等な、コンクリートジャングル東京で戦うチームXでありたいから。主人でも、旦那でもなく、やっぱりパートナーはパートナーで良いのではないか、と常に思う。
そんなことを考えながら、連れていかれた結婚式のフェア。フェア自体は、楽しい。フォアグラを食べたり、写真を撮ってもらったり。各式場によって、趣向が凝らされている。
面倒くさいのは、やたらと式に干渉したがる親だ。「こんなの頭につけたら、可愛いじゃない」「ドレスはどれにするの?!」無理くり頭に色々のせてくる。時には、試着をさせようと、引っ張りだされる。
お願いだから、放っておいて欲しい。しまいには、「んー、もうちょっと痩せたらもっと綺麗になるわ!楽しみにしてるわ」と義理の母。互いの結婚式の話をしながら、知らない間に母親同士は結託している。
「人生で、いまが一番幸せなときだね」
結婚をする、と伝えた時に多くの親世代(主に50代〜)が言う言葉だ。ちょっとまってくれ、人生ってもう楽しいことないわけ?笑 確かに結婚は、1つのライブイベントではあるけれど、大学入学のときも、こないだの海外旅行も同じように幸せで楽しかった。
「女の子の1番幸せなときは、結婚だ」
「可愛いドレスが着たいにちがいない」
「結婚式に、女の子は興味あるもんだ」
決めつけられると、息苦しい
こういう価値観の強要がほんと、ウザい。最初は、「えっ?」と戸惑っていた私も、あまりにも変な固定観念をもって接してくる人が多くて、途中から天邪鬼になった。
言われれば、言われるほど逆らいたくなってきた。損な性格、と思いながらも日に日に「その日」が憂鬱になる。
2人だけで、サクッと綺麗な思い出を共有できればそれでいい。一緒に沢山の時間を過ごすのが、お互いの夢や目標をサポートし合えるのがパートナーであって、そこに仰々しいシキタリはいらない。なのに、どうしてこの人たちは、こんなに面倒くさいんだろう。どうして、「式はするもの」「こうあるべきもの」って妄想を押しつけるんだろう。
あ、分かった。きっと、「呪い」にかかっているんだ。
意識すれば、するほど言葉が重く感じる。言葉に関わる仕事をしているから、なおさら重く感じる。
この呪いを解く方法はわからない。そして、気づいてしまったからこそ、かかってしまう「呪い」もあるのかもしれない。
それでも、自分は誰かに「呪い」をかけない、そんな存在でありたいと思う今日この頃でした。